本サイトは、登録ブロガーさんと一緒に作るクチコミポータルサイトです。全ての情報は参加ブロガーのクチコミで成り立っています。
TOP >記事詳細ページ

【なぜ生きる】人生で最も大切なこと(少し長文)


ある勉強会に参加した備忘録です。

長くてすみません(^^;ゞ


【資料】

(1)幸せはいとも簡単に崩れ去る



「出ていって!」
 2階から駆けおりるなり、父をたたきながら叫んだ母の声は、今も耳の底から離れない。立ちすくむ私の目の前を無言で通り過ぎた父は、二度と家には戻りませんでした。小学生だった私が離婚という言葉を知り、悲しい事態を理解したのは、数カ月たってからのことです。涙に映っていたものは、なんの前ぶれもなく、幸せがいとも簡単に崩れ去るという現実でした。
 どんなに堅固そうな幸福にも、破局があるのではなかろうか。いつ何がおきるか分からない、そんな不安定な人生に、どんな意味があるのだろうか。

 ひとは、なんのために生きるのか。

 平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、この問いに真剣な解答が迫られます。
 不幸な運命に負けず、強く生きる体験記が、つづけてベストセラーになりました。「毎日が訓練と思って耐えなさい。きっと幸せになれるから」「あきらめたら、あかん!」「なんでもいいから、信じた道を歩んでほしい」と訴えています。
 ゆっくりでもいい、一歩ずつ前へ進みなさい……そんなメッセージを、みんな待望しているようだ。

 しかし、どこに向かって歩くのか、ゴールは一体どこなのか、明らかにされているのでしょうか。



◎どんな行動にも目的があります。人生にも……



 どんな行動にも目的があります。たとえば、タクシーに乗った時。いかに無口な人でも、まず行く先を告げるでしょう。目的地がわからねば、どこへ走ればよいか困るからです。むやみに車を走らせたら、時間とお金が無駄になります。
「なんで勉強しているの?」と聞かれたら、「明日、試験があるから」「資格を取るため」などと答えるでしょう。「どこへ行くの?」と聞かれれば、「買い物」「気分転換に散歩」と言うように、行動には目的があるのです。
 では、「なぜ生きるの?」と聞かれたら、なんと答えればよいのでしょうか。
 生きることは大変です。受験戦争を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、リストラにおびえて働き、老いや病魔とも闘わねばなりません。人間関係のストレスに悩まされ、事故や災害、会社の倒産など、不測の事態も襲ってきます。
 これらの苦難を乗り越えて、なぜ生きねばならぬのか。もっとも大事な「生きる目的」が示されぬまま、ただ苦しみに負けず「生きよ」「がんばれ」「死ぬな」の連呼は、ゴールなき円形トラックをまわりつづけるランナーに、鞭打つようなものでしょう。




と、ここまで読むと、このような疑問を抱く人もいるでしょう。

「生きる目的」がもっとも大事と言われますが、それよりも、生活の基盤を整えること、明日のご飯が食べられるかどうか、の方が大切ではないかと。


「生きる目的」とは、別の言い方をすれば「なぜ生きる」、「生活の基盤」とは「どう生きる」です。「なぜ生きる」と「どう生きる」は、目的と手段の関係にあります。


ここで、このように考えてみましょう。

周り中、水と空しか見えない太平洋の真ん中に放り出されたら、どうしますか?
必死に泳ぐでしょう。泳がなかったら死んでしまいますから。

では、どこへ向かって泳ぐのですか?

「生きる目的よりも、生活の基盤を整えることが大事」と言っている人は、「泳ぐ方角よりも、泳ぎ方の方が大事」と言っていることになりますが、それで良いでしょうか?

水平線しか見えない海の中にいて、一番大事なことは、「どこへ向かって泳ぐか」です。人生も同じで、「どう生きる」よりも大切なのが「なぜ生きる」です。


この、「なぜ生きる」を教えられたものが仏教です。皆「どう生きる」が大事だと思っていますが、そうではないことを、蓮如上人は『御一代記聞書』でこう仰っています。
仏法には世間の隙(ひま)を闕(か)きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり

「世間の隙」とは、「どう生きる」「人生のヒマ」「仕事」ということです。「闕きて」とは「止めて」ということです。蓮如上人は、「仕事を止めて仏教を聞きなさい」と驚くべきことを仰っているのです。

生きるということは、一日一日、死に近づいているということです。仏教は、100%死ぬのになぜ生きるのかを教えられたものです。そして、「どう生きる」が大事なのは、「なぜ生きる」が大事だからと教えられます。

仏教は「出世間」の教え、これは世を出た教えということです。一般に「出世」というと"世に出る"というものですが、仏教は"世を出た"「出世」です。「どう生きる」しか知らない世を出て「なぜ生きる」を知ること。これが人生の目的です。

「世間の隙」とは生きる手段です。生きるためには、衣・食・住を整える必要があります。そのためには働かなければなりません。

泳ぐ方角を知らずに、どう泳ぐかばかり考えていても、体力には限りがありますので、やがて土左衛門になるだけです。陸地や船に「着いた」ということがなければ、土左衛門になるために泳いでいるようなものです。そこに、喜びがあるでしょうか。

お釈迦様は、
人身受け難し、今すでに受く
と仰っています。これは、「人間に生まれてきたことは有難いことだ」と言われているお言葉です。

源信僧都は
まず、三悪道を離れて人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼にはまさるべし。心に思うことかなわずとも、地獄の苦には比ぶべからず。
と仰っています。これも「人間に生まれたということは、こんな大きな喜びはない」ということです。

ここで、「人間に生まれた喜び」というのは、生きる目的を知らされ、達成された喜びを言われているのです。

「どう生きる」だけではこのような喜びは出てきません。仕事が生き甲斐だといっても、やがて歳をとって仕事が出来ない体になったら、このような喜びが出てくるでしょうか。

これほど大切なことが教えられているので、仏法は世間の仕事を止めてでも聞かねばならないのですよ、仕事をする為に生きているのではないのですよ、と言われているのが蓮如上人のお言葉なのです。

一番大切なのは「なぜ生きる」という生きる目的。その次に「どう生きる」が大切になってくるのです。逆になることはありません。まず仕事、そして時間が出来たら仏法聞けば良い、というものではない、というお言葉が蓮如上人のお言葉なのです。

(再び)
仏法には世間の隙(ひま)を闕(か)きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり


政治・経済・科学・医学、、、これらは「どう生きる」です。目的達成させるためには、大事なものです。しかし、それが大事になるのは、目的がハッキリしてのことで、目的が分からずに生きていれば、死ぬ為に生きる、ということになってしまいます。

蓮如上人は分かりやすく「仕事を止めて聞け」と仰っているのですが、親鸞聖人はこう言われています。
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり
(浄土和讃)

たとい、大宇宙が火の海になろうとも、そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ。

親鸞聖人がこう仰った根拠は、『大無量寿経』にあります。
設有大火 充満三千大千世界 要当過此 聞是経法 歓喜信楽 受持読誦 如説修行
設い大火有りて、三千大千世界に充満せんに、要ず当に此を過ぎて、この経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし。

「仕事を止めて」どころではなく、「火の中を突破して」と言われています。それ程大事なことが、生きる目的、それを教えられたのが仏教だということです。

では、そこまでして聞かねばならない大切な事とは、一体何か?

蓮如上人は『領解文』でこう教えられています。
「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え

また『白骨の御文章』には
だれの人もはやく後生の一大事を心にかけて

と言われています。

何の為に仏法を聞くのか? 何の為に生きているのか?

生活の基盤を作る、衣食住の安定、、、これらは臨終には吹き飛んでしまいます。

仏教では、一大事の後生を解決する為、と教えられています。100年や200年のことを問題にしているのではありません。私たちの魂の歴史は、70~80年ではなく、「多生」「億劫」と教えらるのです。また、「微塵劫」とも「昿劫」とも言われます。仏教で1劫といったら、4億3200万年ですから、「億劫」とはその1億倍、「微塵」とはチリの数ほどということですから想像を絶する長い時間です。「昿劫」も大変長い時間です。

親鸞聖人は
噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若しまたこの廻(たび)疑網に覆蔽(ふくへい)せられなば更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(教行信証総序)
自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし。
(教行信証化土巻)

と言われています。

一大事の後生とは、千年、万年どころではありません。それを、70年、80年の人生で考えるから、「どう生きる」より「なぜ生きる」が大事と言われても分からないのです。

セミの命は一週間。人間から見れば儚いものと思いますが、微塵劫という我々の生命の歴史からすれば、人生50年や100年、また1000年というのはあっという間です。

多生の問題が仏教で問われているのです。

我々が死んで500年後、500年前に私という者がいたことなど、問題にされないでしょう。ノーベル賞を取ったといっても、何千年後には忘れ去られてしまいます。そんな生命の歴史の中で、我々は一体何をする為に生きているのか? 5年、10年の命を延ばす為に医学は発達してきましたが、それは何の為か?

「なぜ生きる」を知って、それに向かって生きるとき、はじめてその命は意味を持つのです。

「仕事を止めて聞け」という蓮如上人のお言葉を聞くと、「働かなくて、どうして生きて行けるのか」と思いますが、働いていても死んでしまうのです。一大事の後生というのがあるとしたら、それこそ、仕事を止めてでも聞かねばならないことです。

火事にあうかあわないか、分からないことですが、万が一の為に私たちは火災保険に入ります。年金といっても、もらえる時まで生きているか分かりません。しかし、私たちが死んでゆくのは100%のことです。

死んでゆくときは、それまで得たものは全て置いてゆかねばなりません。

まことに死せんときは、予て(かねて)たのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三途の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
(御文章)

病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。

蓮如上人、乱打の警鐘です。


では、一大事の後生とは何か。どうすれば解決できるのか。

長くなりますので、機会があれば改めて。


→つづきをみる

オフィス引っ越しの価格比較資料請求サイト
オフィス物件の価格比較資料請求サイト
ビジネスホンの価格比較資料請求サイト
代理店募集の価格比較資料請求サイト
フランチャイズ募集の価格比較資料請求サイト

この記事の評価
1 2 3 4 5
役に立った!
0pt
おどろいた!
0pt
教えたい!
0pt
笑った!
0pt
うたがわしい?
0pt
徒然
「徒然」
徒然の記事一覧ページへ
音楽鑑賞記録や読書メモ、あるいは感想文などを徒然なるままに綴っています。
ブログを登録しよう!

みんなの評価ランキング

カテゴリ一覧

人気ブログ

新着ブログ